ひさびさの投稿への弁明

 最近、ながらくブログを書いていなかった。

5つしか記事を書いていないにも関わらず、なんと早々のリタイアであることか。

 

でも、これには弁明があるので、「また定期的に書くようにします…」という決意と反省を込めて、8月・9月を振り返ってみようと思う。

結局は夏休みの振り返りにしかなっていないので、日記をネットという海の、不特定多数にむけて公開しているようなものである。(まあブログとはそういうものかもしれない)

 

ほかの記事も大しておもしろくはないが、いっそうおもしろくないということはあらかじめ断っておく。

 

【8月第1~3週】

ほどよく遊びながらほどよく勉強した。伊豆高原まぼろし博覧会に生気を吸い取られつつも熱海で花火を見て回復する。まぼ博のレビューを書こう書こうと思っていたのに忘れた。レポート×2に追われながらもなんとか終わらせる。

 

【8月第4週】

日本言語学会夏季講座に参加する。毎日100分×4コマで正直ミンティアをめちゃくちゃ消費したが、同じ言語学でも違う分野の人からの質問を聞いたりするなかで、自分の専門について批判的に考える機会にもなったので満足度は高い。

 

【8月第5週~9月第4週】

教育実習で中2の英語を教える。自分が英語の発音がかなり下手という気づきを得てへこむ。教育実習後に教員は絶対無理/教員になりたい!のどっちかに振れるかと思ったらそうでもなかった。

 

【9月の残り】

小学校からの友だちとごはんを食べに行ったり映画を見に行ったりしつつ、30日に卒論の実験があったためその準備に追われる。

 

【統括】

夏休みは忙しかった。(のでブログを書けなかったという結論につなげたい)

 

 

そして、もう一つブログを書くことがおろそかになっていた理由として「ネガティブなエネルギー」が足りなかったことをあげておきたい。

 

ブログを始めた時も、どちらかといえばメンタルが弱っているときだった。そして、そういうときのほうが文章を書くエネルギー、というか書きたいもの、書きたい文章が、あんかけを加熱しているときみたいに、ふつふつと湧いてくる。

 

こうしてブログをまた書こう、という気になったのも特に理由があるわけでもなく、メンタルが下降モードに入ってしまったからである。

 

また、メンタルが回復したら、ブログは書かなくなってしまうかもしれない。

でも、自分の書きたいものを、書きたいときに、書いて書いて書いて、自分を肯定してあげられたら、自己満足ではあるけれど、それでいいのかなあ、という気がする。

だって大人気ブロガーなわけでもないし。

 

目標は最低1週間に1つかなあ。。。

だるまさんが転んだめっちゃ楽しい

さっき卒論のイントロダクションを指導教員の先生にメール提出したら、1分で「ここは直してください」と返信が来た。なかなか卒論完成への道のりは遠い。

 

今日はn年ぶりに「だるまさんが転んだ」をして遊んだ。ついでに「だるまさんの一日」もした。そのことについて書こうと思う。

ちなみに、だるまさんが転んだをしたのは中学校以来、もしかしたら小学校以来かもしれない。そして、今日はめちゃめちゃ楽しかった。

 

「だるまさんが転んだ」がどんな遊びなのか知らない人はほとんどいないと思う。

おにが「だるまさんが転んだ」と言っている間にほかの人たちは後ろから近づき、おにが言い終わった後にこちらを振り返ったら全員止まらなければならない。おにが振り返ってこちらを見ている間に動いてしまった人は負け、というのがおおまかなルールである。

 

私も、だるまさんが転んだのルールは十分に理解していた。はずだった。

 

「はじめの一歩」。だるまさんが転んだはこのひとことから始まることをすっかり忘れていた。

「ストップ!!!」。おにはタッチされたあと、この言葉を言わなければならないことを思い出せなかった。

 

そう、だるまさんが転んだの「ルール」は覚えていても、その手順はわりと忘れていたのである。あのころにはあんなにも当たり前だったものをすっかり忘れてしまうとは、月日の流れとはなんと残酷なことか。

 

そして、「だるまさんが転んだ」も「だるまさんの一日」もめちゃくちゃ楽しい。しかもなんと無料。

 

「楽しむため」にミーティングで「アイスブレイク」とかいうカタカナでかこつけてよくわからんゲームをする必要も、まるで当たり前かのようにサークルの集まりのあとに3000円払って居酒屋に行く必要も、大学生のノルマであるかのようにダーツに興じる必要も、懇親会とかいう会で立食パーティーをする必要も本当はないのである。

全人類「だるまさんが転んだ」をしろ。

 

(まあさすがにそれは言いすぎだが)だるまさんが転んだ然り、こおりおに然り、てつなぎおに然り、かごめかごめ然り、幼いころに遊んでいた遊びで私たちはまだまだ楽しめる。そして、それらを見くびってはならない。

 

だから、みんなでこおりおにがしたい。かごめかごめがしたい。かくれんぼがしたい。缶けりがしたい。じゃんけん列車がしたい。ハンカチ落としがしたい。

 

一度原点に返って、みんなでそうやって遊びたい。たまには大人がそういうふうに遊ぶ日があってもバチは当たらないんじゃないかなあと思う。

寛容と諦め

最近、怒れないことが悩みである。

 

イライラすることはあるのだが、他人に対してなかなか怒れない。

誰かに何かをされて、いやだったり、悲しかったりしても「なんでそういうことするの?やめてよ!」とならないのである。

しかも、「怒れない」というのは「怒り」という感情があるにもかかわらず言えないのではなくて、そもそも怒りの感情がないのである。

 

ただ、相手への不信感や失望がないわけではない。が、「まあこういう人だから仕方ないか」と思ってしまうのである。そして、心の中でその人への期待値を下げる。

ちなみにこのことを「エーミール状態」と呼んでいる。

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エーミールとはヘルマン・ヘッセ作「少年の日の思い出」に出てくる登場人物である。

話はあまり覚えていないが、エーミールは(たしか)主人公の家の近所に住んでいるお金持ちの家の少年で、主人公は出来心でエーミールが大事にしていたクジャクヤママユの標本を壊してしまう。それを知ったエーミールは主人公を責め立てるのではなく「そうかそうか、君はそういうやつだったんだな」と軽蔑の視線を送るのである。

 

つまり、相手に対して怒りをぶつけるのではなくて、ただ相手への期待値を下げる(ときには軽蔑にまでいたる)ことでやり過ごしている状態を「エーミ―ル状態」と呼んでいる。

 

果たしてこれは、「寛容」だろうか、それとも「諦め」だろうか。

 

軽蔑にまでいたる状態は明らかに諦めであるだろう。しかし、「この人はこういう性格だから、こういう人だから」とひとつひとつに目くじらを立てず、納得感を持って接しているのならばそれは「寛容」かもしれない。

 

きっと寛容と諦めはグラデーションなのだろう。二元論的にどちらかはっきりさせることはできない。

ただ、当事者や「エーミール状態」が癖になっている人(私も含め)はきっと「諦め」を「寛容」とはき違え、「この人のことは私じゃないとわかってあげられない」という謎の使命感にかられ、自分が我慢することで「寛容」という名の「諦め」によって自分を押し殺しているのではないだろうか。

 

そんなことを深夜にベッドの中で考えていた時に、あるエッセイの一節が思い出された。

 

自傷をしている人は、実は、すごく鈍い」

「人間、他人からの攻撃を受け続けると、ある時、急にかんっと、外の世界に対する感度が下がってしまう。そうじゃないと、とても自分がされていることに耐えられないからだ。」

 

これは小野美由紀さんの「傷口から人生。 メンヘラが就活して失敗したら生きるのが面白くなった」の「私はいかにして、自傷をやめたのか」の中にある言葉である。

 

もしかしたら「寛容」も心の自傷行為なのかもしれない。他人からの攻撃に耐えられなくて、それを自分の感覚を鈍らせて、「寛容」という言葉で覆うことで自らの心を傷つけ、殺しているのかもしれない。

 

この前、友達が急に「最近『寛容』と『諦め』について考えたんだよね」と言っていた。そのときにはあまり話せなかったが、この「寛容」「諦め」そしてもしかしたら「自傷」の問題は誰の心にもあって、多くの人が人生の色々な場面で悩んできているのかもしれない。

 

書いているうちに思考が整理できて、あぁそうか、自分は「心の自傷」をしているのかもしれないな、と納得感が生まれた。

どうやったら「怒れ」るのかはよくわからないが、これからは、もっと「怒って」いきたいと思う。

七夕まつりのジレンマ

今日、Twitterで「バズるブロガーやyoutuberは投稿の内容の濃さは気にせず、とにかく毎日投稿し続けている。」というツイートを見かけた。

そうか、なら今日も書いてみようと思い、今パソコンに向かっているとはなんとも安直な人間である。

 

突然だが、私は来年の2月に院試を控えている受験生である。

 

院試を受験したことのある人ならわかると思うが、院試は夏(8月ごろ)や秋(10月ごろ)が多く、夏+秋や夏+冬(1月ごろ)と1回落ちても何度か受けられるところもある。

 

いや、2月入試ってなに??????

 

私の志望するコースは2月入試しかない。ので、院試に落ちると進路未定のフリーターとなってしまう。

卒論提出は12月なので自主留年することもできず、卒業すると今住んでいる大学の寮からも追われ、東京を追われ、私は里に帰ってフリーターになるしかなくなってしまう。なんと悲惨な運命だろうか。

 

そんな悲惨な運命を回避すべく、夏(半年前)から院試にむけてガンガン勉強していくことが私の平成最後の夏の目標である。

 

ただ、学部生最後の夏。親しい友人もほとんどが来年は社会人である。

それなのにこの夏を勉強だけして過ごしていていいのだろうか。(いや、よくない。)

 

とはいえ、落ちたらフリーター。今から着実に勉強していくしかない。でも友達とも遊びたい。いやでも目先の楽しさに浮かれていていいのか?いちばん大事なのは院試ではないのか?…

 

日々このような葛藤のさなかにいるのだが、私はこれを「七夕まつりのジレンマ」と名付けた。

 

私の地元の七夕まつりはちょうど高校の期末試験の時期と重なる。私はまじめだけが取り柄の高校生だったので、もちろん己を律し、七夕まつりには寄らずにまっすぐ帰宅して、「勉強せねば」という使命感に息巻いていた。(というのはやや誇張である)

 

しかし、この時期に、試験があるのに、七夕まつりに行くやつらもいる。

 

七夕まつりではしゃいでいる同級生(特にカップル)に対して内心(遊んでんじゃねぇよリア充どもが…ケッ)と思っていたのだが、今考えてみればひねくれものである。

 

しかし、ここで問題が起こる。

 

家の玄関をくぐった瞬間に、私のやる気ゲージが0になってしまうのだ。

帰り道では「今日は古文やって数学の課題やって…」と今日やることに思いをはせ、よしやるぞとやる気ゲージ120くらいなのに、不思議なことに玄関をくぐるとそれらはすべて消し去ってしまう。やる気がウユニ塩湖並の更地と化すのだ。

そして「やる気でないな~」とか思いながらTwitterを開き、TLの一番上まできたところでLINEを返し、NAVERまとめの記事をなんとなく読み、またTwitterを開き、を繰り返していると余裕で2時間くらい経っている。

 

いや、それなら七夕まつり行ってるのとたいして変わらなくないか???

 

ちなみに高校3年間これを繰り返した。学習してくれ。

こうして遊びたい気持ちと勉強しなければという理性とやる気のなさがコラボレーションすることで「遊んでいたのと時間的には変わらないけどなにも生まれない虚無な時間」が生まれる。

 

そして、歴史はまた繰り返されようとしている。

 

今年の夏、「七夕まつりのジレンマ」が起こる確率は60%というのが私の予想である。

己を律し、強くいきたい。

 

 

 

ひらがなけやきとパラレルな私たち

今日、インターン先の上長と「エッセイが書きたい」という話で盛り上がった。

そう、私はエッセイが書きたい。そしてあわよくば書店で売り出されてアマゾンのレビューでコメントが2件くらいついてほしい。(ポジティブなやつで)

 

というわけで書く練習として、今日はこの前友達の家でひらがなけやきのライブDVDを見せられたときのことを書こうと思う。

ちなみに前回は敬体で書いたが今日は常体で書こうと思う。まだまだ文体の過渡期ということで許してほしい。

 

ひらがなけやき」とは「欅坂46」を構成する欅坂46けやき坂46という2つのユニットのうちの後者のことを指す。そもそも私は欅坂46については「カラオケで場を盛り下げないようにするための曲としてとりあえずサイレントマジョリティを覚えた」程度の思い入れしかないので、ひらがなけやきというものの存在は知ってはいたものの、詳細については皆無であった。

 

そのため、ライブの映像もアイドルオタクの友だちが熱心に解説するのを半分聞き流しながら、「見分けがつかない…」という気持ちで見ていた。(友達には申し訳なかった)

 

しかし、見ているうちに、次第にひらがなけやきの中に自身の中高時代の思い出が重なりながら去来していることに気づく。

 

ちなみに、ひらがなけやきのメンバーは15歳~22歳と大体高校生~大学生にあたる年齢である。そして、これは決して「アイドルの中に等身大の人間像を見た」のではなくて「自身のなかに(半ば否定的であった)アイドルとの共通項を見出した」と言いたい。

 

ライブの3日目(最終日)の最後の曲が終わった後、メンバー(おそらくリーダー)が自分の思いと、感謝を、ファンに伝えていく。そのメッセージを伝え終えると、急にステージが暗転し、後ろのスクリーンに「重大発表」の文字が表れる。

盛り上がる観客。当のメンバーたちは、ステージ上で歌唱してきたときとは違う、戸惑いと驚きと不安のこもった声をあげながら、隣同士顔を見合わせている。

そして、「デビューアルバム決定!」の文字。

多くのメンバーが「きゃー!」と空気を切り裂くような歓声をあげ、ぼろぼろと涙を流しながら、涙声でお互い抱き合いながら、そして安心感とこれからの重責をしっかりとかみしめながら、声を掛け合っている。

 

その光景は、私が中学三年生の夏に、吹奏楽コンクールで金賞を受賞した時の光景と、まったく同じであった。

 

吹奏楽コンクールでは演奏順に結果が発表されていく。

金賞の数には限りがあり、ひとつ、またひとつと減っていく金賞を眺めながら、自分たちの順番が来るまで、まるで死刑執行を待つ囚人のような気持ちで、結果発表を待つ。

「~~番、○○中学校…。『ゴールド、金賞』」

司会の口から、ゴールドの「ゴ」の字が出た瞬間に、(余談だが金賞と銀賞を区別するために金賞の際は「ゴールド金賞」と読み上げられる)「きゃー!」と、もう金切声なんじゃないかと言わんばかりの声をあげ、ある生徒は泣き崩れ、ある生徒はほっとしたかのように胸をなでおろし、常連校の生徒なんかは県大会への切符の重さをかみしめながら、その場に立っている。

 

まさに、それを思い出したのだ。

これはもしかしたら、アイドルであり、そして同時に普通の女の子である彼女たちの、「普通の女の子らしい一面」が如実に現れただけなのかもしれない。

 

ただ、私は、この武道館という大きなステージで見られた光景が、全国大会で、地方大会で、部活で、文化祭で、体育祭で、学校行事で、もしかしたらそれ以外の課外活動で、日常で、家庭の中で、受験で、アイドルでもなんでもないただの中学生・高校生の、そして大人の、青春という思い出の中に潜んでいるのではないかと思った。

 

たしかに、武道館のステージに立ち、何万人もの人に支持される彼女たちはすごい。

ただ、その規模の大小にかかわらず、それと相似的な場面と感情を経験していく、経験している、そして経験してきた人たちはきっとこの世の中にたくさんいるのではないか。

 

そう思うと、ひらがなけやきのことが、少しだけ近くに感じられるようだった。

 

 

清少納言になりたい。

こんにちは。

今日の午前10時くらいに「そうだ、ブログやってみよう」と思い立って始めました。

 

 

タイトルは「清少納言になりたい。」

 

 

突然ですが、清少納言が好きなんです。

女性だから漢籍なんて…とか1ミリも遠慮せずに(まあ最初は遠慮していたっぽいけど)男性社会でバッサバッサ自分の教養を武器に戦っていく清少納言かっこよすぎません???

 

しかも道長台頭以後の没落の様子は一切書かないで、敬愛する定子様の明朗闊達な性格と、楽しかった宮中の思い出だけを枕草子に描いたとかけなげ過ぎて「はぁ……好き」って感じですよね。(におわせツイートになってしまった)

 

 

とはいえ「好き」のレベル(オタク・マニア・専門家ではない)のため、清少納言枕草子については知らない話や解釈もたくさんあるので、専門性については目をつぶってほしいところです。

 

 

でも、日常生活の中で枕草子にめちゃめちゃ共感できる場面ってあるじゃないですか。

 

うろおぼえで申し訳ないんですが、「どうせ移動距離少ないから化粧適当でいいや~って思ってたら以外に外歩く距離あってやっぱ化粧しとけばよかったってなったわ」って話があったと思うんですが、これとか共感です。「あ~それな!」って清少納言にむかって言っています。(心の中で)

 

清少納言の話はまあこれぐらいにしておいて、このブログは清少納言について語るブログではないんです。

 

清少納言(のように知識と教養の深さから湧き出る世間への理知的な見方を体得し、さらにはそれを外に発信することで多くの人の支持を得れるような人に)なりたい。」

 

ということで半分日記のような、それでいて自分の考えを発信できるような、そういう場にしたいなと思います。

 

だれかに見てもらえたらラッキーくらいの気持ちでやっていこうと思うので、すぐに飽きるかもしれません。なにせ今日の10時に思い立って始めたにすぎないので。

 

大学4年生なので院試・卒論・教育実習の3コンボのなか続けられるかは不明ですがぼちぼちがんばりたいと思います。

 

おわり