寛容と諦め

最近、怒れないことが悩みである。

 

イライラすることはあるのだが、他人に対してなかなか怒れない。

誰かに何かをされて、いやだったり、悲しかったりしても「なんでそういうことするの?やめてよ!」とならないのである。

しかも、「怒れない」というのは「怒り」という感情があるにもかかわらず言えないのではなくて、そもそも怒りの感情がないのである。

 

ただ、相手への不信感や失望がないわけではない。が、「まあこういう人だから仕方ないか」と思ってしまうのである。そして、心の中でその人への期待値を下げる。

ちなみにこのことを「エーミール状態」と呼んでいる。

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エーミールとはヘルマン・ヘッセ作「少年の日の思い出」に出てくる登場人物である。

話はあまり覚えていないが、エーミールは(たしか)主人公の家の近所に住んでいるお金持ちの家の少年で、主人公は出来心でエーミールが大事にしていたクジャクヤママユの標本を壊してしまう。それを知ったエーミールは主人公を責め立てるのではなく「そうかそうか、君はそういうやつだったんだな」と軽蔑の視線を送るのである。

 

つまり、相手に対して怒りをぶつけるのではなくて、ただ相手への期待値を下げる(ときには軽蔑にまでいたる)ことでやり過ごしている状態を「エーミ―ル状態」と呼んでいる。

 

果たしてこれは、「寛容」だろうか、それとも「諦め」だろうか。

 

軽蔑にまでいたる状態は明らかに諦めであるだろう。しかし、「この人はこういう性格だから、こういう人だから」とひとつひとつに目くじらを立てず、納得感を持って接しているのならばそれは「寛容」かもしれない。

 

きっと寛容と諦めはグラデーションなのだろう。二元論的にどちらかはっきりさせることはできない。

ただ、当事者や「エーミール状態」が癖になっている人(私も含め)はきっと「諦め」を「寛容」とはき違え、「この人のことは私じゃないとわかってあげられない」という謎の使命感にかられ、自分が我慢することで「寛容」という名の「諦め」によって自分を押し殺しているのではないだろうか。

 

そんなことを深夜にベッドの中で考えていた時に、あるエッセイの一節が思い出された。

 

自傷をしている人は、実は、すごく鈍い」

「人間、他人からの攻撃を受け続けると、ある時、急にかんっと、外の世界に対する感度が下がってしまう。そうじゃないと、とても自分がされていることに耐えられないからだ。」

 

これは小野美由紀さんの「傷口から人生。 メンヘラが就活して失敗したら生きるのが面白くなった」の「私はいかにして、自傷をやめたのか」の中にある言葉である。

 

もしかしたら「寛容」も心の自傷行為なのかもしれない。他人からの攻撃に耐えられなくて、それを自分の感覚を鈍らせて、「寛容」という言葉で覆うことで自らの心を傷つけ、殺しているのかもしれない。

 

この前、友達が急に「最近『寛容』と『諦め』について考えたんだよね」と言っていた。そのときにはあまり話せなかったが、この「寛容」「諦め」そしてもしかしたら「自傷」の問題は誰の心にもあって、多くの人が人生の色々な場面で悩んできているのかもしれない。

 

書いているうちに思考が整理できて、あぁそうか、自分は「心の自傷」をしているのかもしれないな、と納得感が生まれた。

どうやったら「怒れ」るのかはよくわからないが、これからは、もっと「怒って」いきたいと思う。