朝活と心に響くことばのはなし

前回は朝活として映画「七つの会議」を見に行った話をした。

その日の午後はローストビーフ丼を食べつつ、高田馬場にある「預言CAFE」に言ってきたので、その話をしようと思う。

 

ただ、またしてもだいぶ前回から間があいてしまったので、ただ預言CAFEのレポをするだけでなくて、「相手の心に響くことば」というもう少し大きなテーマについても触れたいと思う。

 

預言CAFEのはなし

「預言CAFE」はプロテスタント協会「アライズ東京キリスト教会」が運営する珈琲専門店のである。

HP:https://yogencafe.com/

店名に「預言」と入っているように、この珈琲店はコーヒーとともに、お客さんに対して「神からのメッセージ」を伝える、という一風変わった喫茶店である。

 

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預言CAFEの外観

 

宗教関連の運営に「預言」ときて、なにか怪しいお店なのではないか、うっかり変な壺を買わされるのではないかと少し疑念を抱いたが、まったくそんなことはなく、店内は普通の喫茶店と変わらぬ様子だった。(し壺も買わされなかった)

たしかに聖書のすすめや礼拝の案内などが掲示されている様子はキリスト教系の喫茶店なのだな、ということを感じさせたが、無理に宗教勧誘を受けることもなく、長々とキリスト教の教えを説かれることもなかった。

 

ただ預言という超自然的な響きが感じられるメッセージを手軽に受けられるとあって、かなりの人気店なようである。

営業時間は14時からであったが、13時には店頭に順番待ち用の名簿が置かれ、記名する方式になっていた。

 

 

さて肝心の「預言とはなにか?」という話ではあるが、預言CAFEのHPにはこのように説明されている。

 

預言は神からのメッセージ、ギフトであり、一人一人に対する神からの愛の言葉です。
神は私たち一人一人に計画を持っておられ、励まし、助けたいと思っておられます。
神が私たちに語る預言は、私たちを慰め、励まし、勇気と希望を与えるものです。
「しかし預言する人は、人を育てることばや勧めや慰めを、人に向かって話します。」(コリント人への手紙 第一 14章3節)

 

つまり、「予言」のような自身の未来や運命を予見して一方的に宣告されるようなものではなく、神様からの励ましや応援が「預言」である、ということのようだ。

 

 

コーヒーを注文すると、飲み物がテーブルに運ばれてくると同時に、スタッフの方も同じテーブルについて「預言」をしてくれる。

この預言がこれまた不思議なもので、スタッフの方が3分くらい、台本も見ずに、ひたすらしゃべり続けるのである。

そのため、預言はスマホなりボイスレコーダーなりで録音するのが基本である。

この説明だけではいまいち納得できないとは思うが、本当にこのとおりなのでとても不思議である。しかも、一言一句暗記しているという感じもせず、どちらかといえば言う内容だけが決まっていて、それを自分のことばで説明しているような様子だったのでますます狐につままれたような気持ちになった。

 

それで、私が伝えられた預言を少し書き起こしてみようと思う。

 

 

主が言われます我が愛する娘よ私はあなたを愛していますたくさんたくさんいろんなことに向き合い取り組んできたあなたの姿も私はこう知っていますよと主は言われています私は今あなたがあのことは大丈夫これは大丈夫かなっていろいろ心配しないでもっともっとご自分のやってみたいこと向き合いたいことそれにこう向き合っていくことができるようにあなたにこう道を用意しようと主が言われています……」

(とめどなく話す様子をふまえてあえて句読点はいれていません)

 

 

読んでもらえばわかる通り、預言はある程度聖書の文脈や解釈に従って記述されている。

そのため、預言の解説本もあるようだった。きっと買ったほうがより深い読みができるんだろうなあと思いつつも今回は購入しなかった。

 

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奥に見えるのが預言の解説本。預言CAFEのお客さんの体験談も載っている。

 

ちょうどこのときは院試のためお休みしていたインターンに復帰し、3月の卒業にむけてあれもこれもやらなければ、と思いつつ忙しさのため活動の質が下がっているように感じていた時期である。

そのため、「あれこれ心配しないでやりたいことにチャレンジしてみたらいいよ」という預言は自分の中にもすとん、と入ってきたし、「私は『ちゃんと自分のやりたいことを、色々な方面で追求していっても大丈夫だよ』と言ってほしかったんだな」と思った。

 

ちなみに預言CAFEには友達と4人で言ったが、それぞれ預言の内容がまったく違っていた。

血液型占いによくある、言われてしまえばたしかにそうかもしれないと思ってしまう錯覚は、ほかの人の預言を聞いても起こらなかったので、もしかしたら本当に神様はいるのかもしれない、と思えた。

 

 

相手の心に響くことばは難しい

今回の預言CAFEで受けた預言によって、「私は今のやり方でがんばってていいんだ」と背中を押してもらえたように感じた。

でも、相手の心に響くことばをかけるのはかなり難しいと感じる毎日である。

 

自分の心に残っている誰かからのことばは、案外それを発した本人にとってはそれほど印象的でないことも多い。

また逆に、自分が「これはいいことを言ったぞ」と心の中で会心の笑みを浮かべていても、そういうときほど相手にはそれほど刺さらないことが多い。

 

この間も、インターン先の後輩から「もっちーさんにあのとき声をかけてもらわなかったら、インターンになってませんでしたよ」と言われて、はてそんなこと言っただろうか、と思った。

逆にインターン先の上長が言っていた「葛藤なくして成長なし」ということばは、めちゃくちゃ「かっこいい!」と思ったのでメモしてあるが、上長本人はどこまで覚えているのかさだかではない。(別に口癖だったというわけではないし、たまたま話の流れでそのことばが出ただけかもしれない)

 

 

友人や後輩や身の回りの人からなにか悩みを相談されたときに、「相手が欲していることば」、たとえば「大したことないよ~」と謙遜する相手に対して「すごいよ!」と称賛を与えたり、自己嫌悪に陥る相手に対して「そんなことないよ!」と否定をしたり、をすることはよくあることである。

 

でも、だいたい相談をもちかけてきた本人も、自分がどんなことばをかけてほしいのかはわかっていることのほうが多い気がする。

だから、相手の心に響く言葉は「相手がかけてほしいと自覚はしていないが、深層心理では言ってほしいことば」という微妙なラインに位置していることばなことが多い。

 

ただ相手の心に刺さることばをなんとかして発しようとしても、それを意識しているうちには到底そんな「名言」は言えないような気がしている。

相手の背中を押すような、すこしでも心を軽くしてあげられるようなことばをかけてあげたい、とは思いつつも、「名言」を発することが目的なうちは、結局は薄っぺらいことばしか出てこないのではないかな、と思う。

 

だからこそ、もしことばで相手を助けてあげたいと思うのならば、逆説的に自分のあたまに浮かんでくるまま、心に湧き出てくるまま、「相手を助けよう」などといった高尚な使命感をもたずに、ことばを伝えるしかないのかなと思っている。

(ただし正論が必ずしも正義ではないので、あくまで良識の範囲内である)

 

 

そうしているうちに、自分のことばが知らないうちにだれかの心のなかに蓄積されていくだろうし、発した本人は知らないうちに、だれかのことばが自分のなかに蓄積されていくのを繰り返していくのではないだろうか。

 

 

 

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最後に高田馬場のローストビーフ丼の写真

 

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