朝活と心に響くことばのはなし
前回は朝活として映画「七つの会議」を見に行った話をした。
その日の午後はローストビーフ丼を食べつつ、高田馬場にある「預言CAFE」に言ってきたので、その話をしようと思う。
ただ、またしてもだいぶ前回から間があいてしまったので、ただ預言CAFEのレポをするだけでなくて、「相手の心に響くことば」というもう少し大きなテーマについても触れたいと思う。
預言CAFEのはなし
「預言CAFE」はプロテスタント協会「アライズ東京キリスト教会」が運営する珈琲専門店のである。
店名に「預言」と入っているように、この珈琲店はコーヒーとともに、お客さんに対して「神からのメッセージ」を伝える、という一風変わった喫茶店である。
宗教関連の運営に「預言」ときて、なにか怪しいお店なのではないか、うっかり変な壺を買わされるのではないかと少し疑念を抱いたが、まったくそんなことはなく、店内は普通の喫茶店と変わらぬ様子だった。(し壺も買わされなかった)
たしかに聖書のすすめや礼拝の案内などが掲示されている様子はキリスト教系の喫茶店なのだな、ということを感じさせたが、無理に宗教勧誘を受けることもなく、長々とキリスト教の教えを説かれることもなかった。
ただ預言という超自然的な響きが感じられるメッセージを手軽に受けられるとあって、かなりの人気店なようである。
営業時間は14時からであったが、13時には店頭に順番待ち用の名簿が置かれ、記名する方式になっていた。
さて肝心の「預言とはなにか?」という話ではあるが、預言CAFEのHPにはこのように説明されている。
預言は神からのメッセージ、ギフトであり、一人一人に対する神からの愛の言葉です。
神は私たち一人一人に計画を持っておられ、励まし、助けたいと思っておられます。
神が私たちに語る預言は、私たちを慰め、励まし、勇気と希望を与えるものです。
「しかし預言する人は、人を育てることばや勧めや慰めを、人に向かって話します。」(コリント人への手紙 第一 14章3節)
つまり、「予言」のような自身の未来や運命を予見して一方的に宣告されるようなものではなく、神様からの励ましや応援が「預言」である、ということのようだ。
コーヒーを注文すると、飲み物がテーブルに運ばれてくると同時に、スタッフの方も同じテーブルについて「預言」をしてくれる。
この預言がこれまた不思議なもので、スタッフの方が3分くらい、台本も見ずに、ひたすらしゃべり続けるのである。
そのため、預言はスマホなりボイスレコーダーなりで録音するのが基本である。
この説明だけではいまいち納得できないとは思うが、本当にこのとおりなのでとても不思議である。しかも、一言一句暗記しているという感じもせず、どちらかといえば言う内容だけが決まっていて、それを自分のことばで説明しているような様子だったのでますます狐につままれたような気持ちになった。
それで、私が伝えられた預言を少し書き起こしてみようと思う。
「主が言われます我が愛する娘よ私はあなたを愛していますたくさんたくさんいろんなことに向き合い取り組んできたあなたの姿も私はこう知っていますよと主は言われています私は今あなたがあのことは大丈夫これは大丈夫かなっていろいろ心配しないでもっともっとご自分のやってみたいこと向き合いたいことそれにこう向き合っていくことができるようにあなたにこう道を用意しようと主が言われています……」
(とめどなく話す様子をふまえてあえて句読点はいれていません)
読んでもらえばわかる通り、預言はある程度聖書の文脈や解釈に従って記述されている。
そのため、預言の解説本もあるようだった。きっと買ったほうがより深い読みができるんだろうなあと思いつつも今回は購入しなかった。
ちょうどこのときは院試のためお休みしていたインターンに復帰し、3月の卒業にむけてあれもこれもやらなければ、と思いつつ忙しさのため活動の質が下がっているように感じていた時期である。
そのため、「あれこれ心配しないでやりたいことにチャレンジしてみたらいいよ」という預言は自分の中にもすとん、と入ってきたし、「私は『ちゃんと自分のやりたいことを、色々な方面で追求していっても大丈夫だよ』と言ってほしかったんだな」と思った。
ちなみに預言CAFEには友達と4人で言ったが、それぞれ預言の内容がまったく違っていた。
血液型占いによくある、言われてしまえばたしかにそうかもしれないと思ってしまう錯覚は、ほかの人の預言を聞いても起こらなかったので、もしかしたら本当に神様はいるのかもしれない、と思えた。
相手の心に響くことばは難しい
今回の預言CAFEで受けた預言によって、「私は今のやり方でがんばってていいんだ」と背中を押してもらえたように感じた。
でも、相手の心に響くことばをかけるのはかなり難しいと感じる毎日である。
自分の心に残っている誰かからのことばは、案外それを発した本人にとってはそれほど印象的でないことも多い。
また逆に、自分が「これはいいことを言ったぞ」と心の中で会心の笑みを浮かべていても、そういうときほど相手にはそれほど刺さらないことが多い。
この間も、インターン先の後輩から「もっちーさんにあのとき声をかけてもらわなかったら、インターンになってませんでしたよ」と言われて、はてそんなこと言っただろうか、と思った。
逆にインターン先の上長が言っていた「葛藤なくして成長なし」ということばは、めちゃくちゃ「かっこいい!」と思ったのでメモしてあるが、上長本人はどこまで覚えているのかさだかではない。(別に口癖だったというわけではないし、たまたま話の流れでそのことばが出ただけかもしれない)
友人や後輩や身の回りの人からなにか悩みを相談されたときに、「相手が欲していることば」、たとえば「大したことないよ~」と謙遜する相手に対して「すごいよ!」と称賛を与えたり、自己嫌悪に陥る相手に対して「そんなことないよ!」と否定をしたり、をすることはよくあることである。
でも、だいたい相談をもちかけてきた本人も、自分がどんなことばをかけてほしいのかはわかっていることのほうが多い気がする。
だから、相手の心に響く言葉は「相手がかけてほしいと自覚はしていないが、深層心理では言ってほしいことば」という微妙なラインに位置していることばなことが多い。
ただ相手の心に刺さることばをなんとかして発しようとしても、それを意識しているうちには到底そんな「名言」は言えないような気がしている。
相手の背中を押すような、すこしでも心を軽くしてあげられるようなことばをかけてあげたい、とは思いつつも、「名言」を発することが目的なうちは、結局は薄っぺらいことばしか出てこないのではないかな、と思う。
だからこそ、もしことばで相手を助けてあげたいと思うのならば、逆説的に自分のあたまに浮かんでくるまま、心に湧き出てくるまま、「相手を助けよう」などといった高尚な使命感をもたずに、ことばを伝えるしかないのかなと思っている。
(ただし正論が必ずしも正義ではないので、あくまで良識の範囲内である)
そうしているうちに、自分のことばが知らないうちにだれかの心のなかに蓄積されていくだろうし、発した本人は知らないうちに、だれかのことばが自分のなかに蓄積されていくのを繰り返していくのではないだろうか。
朝活をした①(映画「七つの会議」編)
久しぶりの投稿であるが、やっと院試が終わり、無事合格することができた。
大学院に進学すると決め、2月に1回だけある試験のために勉強をしてきたのだが、無事に進学が決まりひと安心である。
院試に向けた勉強法や当日の様子については、また後日詳細にまとめてブログにアップしたいと考えている。
院試とはまったく関係ない話ではあるが、この前の木曜日(14日)に友達と朝活、ということで映画を観てきた。
今回観たのは、池井戸潤原作の「七つの会議」という作品である。
今回は一緒に行った友達がレビューを参考に選んでくれたので、私はあらすじも知らない状態で映画館に向かった。
あまりドラマも見ないので池井戸作品というと銀行と中小企業ががんばる話、というイメージしかなく、正直そこまで期待していなかったのが本音である。
実際映画が始まる前の予告を見ながら、「シティーハンター観たいなあ」と別のことを考えていたりした。
しかし、見終わったあとは「この映画を観ることができて本当によかった」と思い、劇場が明るくなってもなかなかその余韻から抜け出せずにいた。
もちろん話もおもしろく、かつわかりやすくまとめられていたので、映画の中に引き込まれたが、それだけではなくて、出演する俳優さんたちの演技であったり、セリフ回し、音楽など、映像作品だからこその要素にもとても惹きつけられた。
※このあとはネタバレを含みます。ネタバレNGな方はご注意ください。
まず、映画は都内の中堅メーカー東京建電の営業会議の場面から始まる。
原島(及川光博)が課長を務める営業二課はなかなか営業成績が振るわず、北川部長(香川照之)に厳しく叱責される。一方、坂戸が課長を務める花形部署の営業一課は順調にノルマを達成し、恐れられている北川部長からも認められているようだった。
だが、そんな花形部署に不相応なぐうたらな係長八角(野村萬斎)は会議中に居眠りをする始末。しかし、ある日営業のエースである坂戸が八角にパワハラで訴えられ、不自然な異動処分となる。そしてその後も八角に関わった人物は不自然な異動処分を下されてしまう。
営業ノルマ、社内の部署間での確執、親会社であるゼノックスとの関係…それらがだんだんと明らかになり、それらすべてをつなぐ秘密が最後に明かされる。
あらすじはこんな感じである。
その中で印象的だった点をいくつかあげようと思う。
①音楽
個人的には音楽が作品や登場人物とマッチしていて好きだった。
(おそらく)オーボエの怪しげなメロディは八角の飄々としていてどこか掴めない雰囲気や、何か重大な秘密を抱えているのではないかという疑いを表現しているようで印象的だった。
また、作品の中ではいくつか会議が出てくるが、親会社の社長を交えての「御前会議」での有無を言わさぬ威圧感、荘厳さ、絶対的権力、張り詰める空気、緊張も音楽を通して伝わってきたように感じた。
②北川部長の変化
北川は厳しい営業ノルマを課し、威圧的な態度で部下たちを叱責する社内の絶対的な権力者として描かれている。会社という組織では結果がすべて、この組織の中でどんな手を使ってでも出世をし、権力を掴むことが自らの存在意義と考えているような人物である。
ドラマ半沢直樹は視聴していなかったためあまり詳しくはないが、その際には同じく香川輝幸が大和田常務を演じていたこともあり、大和田常務を彷彿とさせるようなキャラクターだと思った。
そんな北川は実は八角と同期だったわけであるが、すべての不正がゼノックスの社長により闇に葬られ失望する八角と北川が作品前半~中盤の「部長と係長」という上下関係ではなく、「同期」として自らの会社人生を振り返るシーンは二人の悔しさ、失望、怒りが伝わってきてこちらも泣きそうになってしまった。
(正直一度しか映画を観ていないので、もしかしたら場面の描写や事実関係が微妙に異なっているかもしれないがその点はご容赦いただきたい。)
北川は会社のため、出世のため、結果のため、と不正を犯し、部下を必要以上に苦しめ、全てを会社に捧げてきたにもかかわらず、結局は不正隠蔽のために異動させられてしまう。そのときに、「自分は会社人生でいったい何が残せたというのだろうか。会社という一つの組織にしかすぎないものを絶対視し、つまらない見栄やプライドのために身を粉にしてやってきたことは何も価値がなかったのだ」と悟り、己の20~30年を無駄にした悔しさ、会社や自分自身への怒りに拳を震わせ、涙を見せる。
八角と北川の背中が、これまでの飄々さや威圧なしに、同期の二人として等身大にならんでいる姿は「組織」という洗脳から開放されたことを示しているようであった。
また、不正隠蔽をマスコミにリークした後には、北川は実家の食用バラの栽培を継ぐこととなる。エンドロールでむしゃむしゃとバラを食べる姿には、NHKの「昆虫すごいぜ」のカマキリ先生を思い出し、思わず笑ってしまった。
ただ、それは単純な滑稽さだけではなく、会社という組織に属さないことは死に値する、といわんばかりであった人物も、新たな生き方を歩んでいくことができるのか、という一種の救いによる安堵でもあったのではないかと思う。
最後のエンドロールでは、調査委員会で「こういったデータ改竄をなくすためにはどうしたらいいと思いますか?個人的にお聞きしたいです。」と八角は尋ねられる。
それに対して、何度か「それ、本気でおっしゃっています?」と八角は返すが、やがて自らの思いを淡々と語る。
このシーンがめちゃめちゃにかっこよかった。このかっこよさを描写する力が足りないことが歯がゆく感じる。
八角は誰よりも不正に対して真摯に向き合い、事故により人命が犠牲となることがないよう、会社への失望や無力感にも決して屈することなく、諦めず、常に前に進み続けた人物である。その八角自身が「不正は絶対になくなりません。」と言い切る。
日本はもともと藩社会だからこそ、組織に属していようとする。だからこそ、連帯感や結束感といったよい面もあれば、組織を絶対視し、権力に従属し、不正や隠蔽を繰り返してしまうという負の側面もある。
だから、不正は絶対になくならない。ただ、不正をできるだけなくすようにはできるのではないか。そのためには、餓鬼みたいなこと言うようですが、不正を暴こうとする人々が、あきらめずに、その歩みを止めずに、ただ目の前の問題を解決するために、最善を尽くそうと思い続けることが必要なんじゃないですかね。
というようなことを、淡々と、飄々と語る。(うろ覚えなのでもしかしたら間違えているかも)
あれほどの無力感と失望を乗り越え、常に問題に向き合い続けた八角自身が、感情論を排した冷静な分析を交えて淡々と語る様子は本当に釘付けになった。
ほかの人たちが諦めていくなかで、自分だけが粘り強く突き通した信念を、私だったら「絶対的な正義」として他人に話したくなると思う。
「自分は不正に対して真摯に向き合い続けた、不正は絶対悪、この世からなくさなければならない!」ということを自信たっぷりに話してしまいそうである。
にもかかわらず、「不正は絶対になくならないにもかかわらず、それをなくそうとこだわり続けるなんて馬鹿みたいだ」と自分自身を冷笑するかのように言ってのけ、しかし「たとえ馬鹿で愚かだとしても問題に対して取り組み続ける。たとえそれで社会が変えられないとしても、それが私の信念だ」と言わんばかりの語りが本当にかっこよかった。こういうふうに生きたい。
自分自身が価値がある、正義だと考えているものに対して一直線に向かっていくのよりも、世間が馬鹿だ愚かだと冷笑していることを自覚したうえで、己の信念を突き通す方が難しいのではないかと思う。
でも、だからこそかっこいいなと思った。かっこいいしか言えない己の語彙力のなさを恨む。
ネタバレを読んでいる人はもう映画を観た人か、原作を知っている人か、観る予定はない人かのどれかだとは思うが、ぜひ映画館で映画を観てみてほしい。
あと八角の元妻の叔子もいい人過ぎて感動した。
ちなみに朝活をした②(預言カフェ編)も後日書く予定である。
「大人」の言い訳に逃げない
前回、ブログを更新してから1か月が経っていた。
はてなブログに登録してある、gmailアドレスに、「そろそろ更新しませんか?」というメールが届いていた。
12月も後半に差し掛かり、いよいよ2018年が終わりに向かっているのをひしひしと感じる。
外を歩いたときの刺すような空気の冷たさも、駅前で輝くイルミネーションも、「クリスマスケーキ予約承り中」という案内も、スーパーに並ぶ切り餅も、迫りくる卒論の締切も、「もう2018年は終わるぞ」という事実を否応なしに突き付けてくる。
そうやって日常のいたるところで、2018年、という1年間に目を向けさせられるので、次第にFBに今年の振り返りでも書こうかな、という気になってくる。
ただ今年は充実していたなと思うからこそ、長文が許される風土のあるFBでさえ異色なほどの長文を、冗長な言葉で、わかりにくく、まわりくどく、でも一つ一つ丁寧に描いてしまおうとするだろうから、せめてブログに書こうかな~と思う今日この頃である。
長々と年末の心境について語ってしまったが、今日書こうと思ったのは「『大人』の言い訳に逃げない」ということ。
前にもブログで少し書いたが、私は中高生向けの施設でインターンをしている。
そこである日、高校生2人が「自分が好きなものは本当に『自分が』好きなのか」という話をしていた。
その高校生をAくんとしよう。
Aくんは陸上が好きで、将来は小学校の体育教師になることを目指している。
ただ、最初に陸上を始めたきっかけは「親から勧められたから」であって、決して自発的なものではなかった。
もちろん、続けていくうちにどんどん楽しさに気づくようになり、今では「陸上が好き」と思うようになったという。
ただ、Aくんにとって「それは本当に『自分の』好きなことといえるのか」という少しの疑念があるらしい。
「親から勧められて」始めたことは、本当に自分が好きなことといえるのだろうか?
それについて、同じ施設に来ている女の子と真剣に話し合っていた日があった。
これを聞いたとき、私は反射的に「悔しい!!!」と思ってしまった。
こういった深いけどなかなか日常会話の中では恥ずかしい話、「エモい」話を大学生や大人はどこでしているかと考えたら、それはたぶんお酒の席である。
高校生は「お酒を飲んでいたから」という逃げ道がなくとも、正面から自分自身や思考に向き合っているというのに、大人は「お酒」という言い訳を用意しないとそんな話もできないのか!!
悔しい!!!
もちろん、お酒の席だからこそ、普段なかなか話せない本音を話しやすくなることもあるだろうし、青臭い話をしたとしても「お酒の席だったんで」と言い訳じみたことを言わない人だっているだろう。
でも、次第に「ごはんに行く=飲みに行く」という等式が当たり前になっていくのと同時に、「そういった話はお酒を飲みながら話すものだ」と知らず知らずのうちに思いこんでいるのはたしかではないだろうか。少なくとも自分はそうであった。
そうやって、自ら「こういうものだ」「こうしなければならない」という「常識」「規範」をつくっていたことに愕然とした。
自分だって、お酒を飲めるようになる前は、こういった話に正面から向き合っていたんじゃないだろうか。
なにか言い訳や逃げ道を用意しないと深い話、青臭い話、ちょっと照れくさい話、自らの思考について話せなくなってしまったんじゃないのか。
もちろん、大人になることで今までできなかったことができたり、新しい世界や常識の存在する世界を見ることができるというよい面もある。
ただ、大人になったからといって、それを言い訳にすることなく、生きていきたいなと思った。
白門祭の「AVの教科書化に物申す!」に行ってきた。
11月、といえば大学生にとっては学園祭シーズンである。
今月は毎週末どこかしらで学園祭が開催されているのだと思う。まして有名大学が集まっている東京では電車内の広告で「レジャーの一つ」として大学の学園祭が取り上げられたりしている。
そして、今日中央大学の学園祭の白門祭に行ってきた。
前々からチケットを購入していた「AVの教科書化に物申す!」というイベントに参加するためである。
まず、ゲストがめちゃくちゃ豪華。
このブログで以前紗倉まなちゃんの話をしたが、そのまなちゃんを始め、AV男優として有名なしみけんさん、女性向けAVに出演する一徹さん、某アパレルメーカーを辞め、今はAVメーカー「最強属性」代表のコンピューター園田さん、そして産婦人科医で全国で性教育に取り組む遠見先生とそうそうたる顔ぶれである。
その5人のトークショーが3時間学生料金1000円で本当にいいのだろうか、という気持ちにすらなった。
第1部はAVと現実のセックスの違いについてAVに関わる4人を中心にトーク、第2部は遠見先生からセックスやSTI、避妊法など性にまつわる話をクイズ形式で解説、第3部はお悩み相談ということで、セックスに関する悩みについてのトークという構成だった。
本当はしみけんさんからいくつも出た名言(「食事は前戯」「ゴムをつけない男は挨拶ができない男と同義」とか)だったり、まなちゃんのかわいさだったり、一徹さんのめちゃくちゃに紳士的な対応だったり、園田さんからのAVが世にでるまでの話だったり、遠見先生の解説で初めて知った知識だったりをひとつひとつ取り上げていきたいが、議事録を取っていたわけでもなく、とにかく濃密な時間だったので、そういったレポはTwitterで#AVの教科書化に物申すで検索してもらうのがいちばんだと思いちょっと書くのはやめておく。
まあ、ブログといっても私個人の考えを言語化してまとめる場という機能のほうが大きいので、ここからは今日考えたことをつらつらと書き散らしていこうと思う。
今日の率直な感想としては、とてもとても楽しかった。
もちろん、性教育という啓蒙的な側面でのおもしろさもあったが、それ以上にゲストの方々のトークがエンターテイメントとしてもおもしろかった。
AVという特殊で人々の好奇心をかきたてる業界の裏話や自分たちのプライベートな経験も踏まえて、「性」というなかなかオープンには話せないけれど、ある程度私たち聞き手の中で身近な話題についてのトーク。それならばおもしろくなるのはまあ当然なのである。
それに、ある意味AVや性に関わることが「普通」であるゲストの方々だからこそ、こちらも変な居心地の悪さや恥ずかしさを感じずに気楽に話が聞けたのだと思う。
私もTwitterで「このイベント行ってきました!」とツイートするのは、実はちょっと恥ずかしさというか、気まずさのようなものを感じていたが、やっぱり「性=恥ずかしいもの」という乱暴なくくり方や意識が日本での性教育の遅れやセックスの問題を見えづらくしているのではないかと思う。
だからこそ、自然に、普通に、性やセックスのことについて話せる場に今日参加できたのはとてもよかったなあと思った。やっぱり話す相手や場を選ぶとはいえ、仲のいい女友達ぐらいとはもっとカジュアルに性について話せたらいいなと思う。
それから、性やセックスに関する知識や意識は、やっぱりAV男優・女優さんのほうが私たちよりもはるかに高く、本当にプロフェッショナルなのだなと感じた。
第2部では遠見先生の解説をほかのゲスト4人が生徒役となって聞く、という構成だったのだが、途中にあったクイズも全員が正解していた。
まあ、これくらいは少し性に関する知識をしっかり身につけようと思えば今の時代はすぐに手に入る情報かもしれない。
ただ、毎月性病7項目の検査が義務付けられていたり、しみけんさんの「セックスで潮吹きをさせようとしてくるやつは自分のことしか考えてないからダメだ」という言葉であったり、AV業界内での倫理規定やルールの順守の徹底であったりと、「フィクションとしてのセックス」を描いている、という強い自覚のもとに、できるだけ安全性や倫理観を保証していこう、という強いプロ意識が感じられた。
ある意味、AVのセックスは完全な「他人」との「手順・ストーリーを決められた」セックスであるからこそ、一見危険なセックスのテンプレートに見える(まあAVのプレイ内容を実際にしようとしたら危険なものである)が、見えない部分・映像化されていない部分で(演じる双方の)性的な合意やお互いの安全性(性感染症のリスクなど)といった客観的な部分があらかじめ担保されているのかもしれない。
恋人関係といった、私的で主観的な関係性におけるセックスだからこそ、「ゴムをつけてって言って嫌われたらどうしよう」「好きだから何してもいいよね」といった誤った判断がまかり通ってしまうのではないかな、と思った。
そして最後の第3部では「ホテルに誘うにはどうしたらいいか、性的な合意はどうやってとればいいのか、ピロートークはどんなことを話せばいいのか」という悩みが取り上げられた。
最終的にはホテルに誘うにも、性的な合意をとるにも、「これをすれば絶対に大丈夫」ということはない、という結論に至った。
今回のイベントの中でも何度も出てきた言葉であるが、セックスはコミュニケーションだと私も思う。だからこそ、絶対的な正解はないのだと思う。
幅広く人間関係においても、「この話をすれば絶対に仲よくなれる」「これをしたら友達といえる」といった基準は存在していない。
寡黙な人にとっては何もしゃべらなくても友達といえる関係もあるだろうし、逆にいつまでも話が尽きない、という友達関係もあると思う。
だから、恋人(もしくはそれ以外にも)とのセックスも「これをしたらOK」という絶対的な基準が存在するわけではなく、自分と相手の関係性・様子・言動を総合的に鑑みて、最終的には自分で判断するしかないのだと思う。
大切なのは、判断の基準を「家に遊びに来たからOK」「2人で飲みに行ったからOK」といった外部に依存するのではなく、「相手」そのものに目を向け、自分と相手のコミュニケーションの一つの手段としてセックスを選択するかどうかではないだろうか。
ただ、そういったセックスに踏み切るかどうか、の判断の責任はなかなかに大きい。もし見誤ってしまえば今後の関係性に大きな影響を及ぼすし、最悪交友関係が絶たれてしまうかもしれない。
だから、その判断を男性にすべて丸投げしてしまうのではなくて、女性側もきちんと同意をしたことに自覚的になるべきだと思う。
「なんとなく雰囲気でしちゃった」「むこうから迫られたからつい」ではなくて、少なくとも誘ってきたのはむこうであっても、自分は明確にそれに対して合意した/合意していなかったのか自覚したうえでセックスに臨むべきではないかなと思った。
気がつけばたくさん書いてしまった。今日は院試の勉強全然進まなかったので明日からはがんばりたい。
ちなみに、まなちゃんめちゃんこかわいかった。
これはまなちゃんのTwitterからの転載なんですが本当にかわいかったです。
最近気になっている人
最近、気になっている人がいる。
といっても、別に身近な異性への恋愛感情というわけではなくて、相手は芸能人である。
芸能人、の定義はあいまいで、あまりよくわかっていないのでもしかしたら間違っているかもしれないが、最近気になっているのはAV女優の紗倉まなさんである。
紗倉まなさん(以後まなちゃんと呼ぶ)はもちろん本職はAV女優なのだが、コラムを執筆したり、執筆小説の「最低」は映画化していたり、最近では文芸誌に小説を発表するなど、とても多才な活躍をしている女性である。
私も、はっきりとは覚えていないが、まなちゃんを知ったのはAVからではなかった。(というかAVは未知のものすぎて見るのが怖いというのもある)
まなちゃんのすごいなあ、と思えるところはたくさんあるのだが、その一つに、「等身大の性」をまるで世の中の女性たちに寄り添うかのように、やさしく、でも理性的に語ってくれるところにあると思う。
最近も、「働くおっぱい」というコラムで生理についてとりあげていたが、毎月くる整理へのめんどくささと、でも一種の健康のバロメーターであって尊いものだという認識と、でもやっぱり生理によって引き起こされるマイナス面がうっとうしくて、という私ももう何十回も経験してきたものを、ていねいにていねいにことばにしていて、本当に共感しかなかった。
それから、まなちゃんはVoicyという音声配信アプリでもラジオ配信(という表現であっているのか)をしているがそこでの性に関する話題の取り上げ方もいつもすごいなあ、という月並みな表現でしかないが、思ってしまう。
もちろん、お仕事がお仕事なので、AVの撮影についても話してくれることは多い。
でも、AV女優だから性に関する話題を無遠慮に出しているかというとそういうわけではなく、配慮が必要だとの認識を持ちつつも、決してタブー視して過度に倦厭しない、そういう取り上げ方は本当にすてきだと思う。
少し話題が逸れるが、少し前に中学校の保健体育での性教育の取り上げ方が問題となったことがあった。
日本では性教育や性に関する知識は「性=いやらしい、不健全」というなんとも乱暴なくくりかたで過度にタブー視されていると思う。
ただ、将来子どもをつくったり、パートナーとコミュニケーションをするなかで、セックスは避けられない行為であるわけだし、ほぼすべての人が通る道をタブーだ、不健全だということで隠し通すのは、それはむしろ誤った性知識の蔓延につながっていると思う。
たしかに、18歳未満の子どもにすべてをあけっぴろげに見せることは正しいことではない。ただ、「性」という話題が配慮されるべきであるが、タブーではなくて、もっと普通に、自然な感覚で友達と、家族と、恋人と、話せるようになったらもっと性に対する不安感であったり無理解が減らせるんじゃないかなと思っている。
そして話は戻るわけだが、AV女優という特殊な、性コンテンツの最前線、とくに男性の性欲を満たすというどちらかといえば双方向的というよりは一方的なセックスのあり方、に向き合いながらも、性に対して過度に敏感になるわけでもなく、鈍感になるわけでもなく、ちょうどよい塩梅で話ができるまなちゃんはすごいなあと日々思いながらVoicyを聞いている。
本当はほかにもまなちゃんのすごいところを書きたいが、そろそろ勉強しなければならないのでこのへんにしておこ。
たまに食べたくなるもの
おいしくはない(むしろちょっとまずい)けど、たまに食べたくなってしまうものがある。ただ、この話をしてもあまり共感してもらえない。
たまに食べてみて「やっぱあんまりおいしくないな~」とおいしくなさを確認するのがいいのに。
①甘酒
甘酒のおいしさがいまだにわからない(もしかしたら安い甘酒しか飲んだことがないからかもしれないが)。
「甘くておいしいじゃん!」っていう人もいるけど、いや、甘さ以外にそれを打ち消す要素も強いから。
におい結構きつくない?しかもドロドロしてるのもちょっといやじゃない??
(でも地元のお祭りで毎年無料で配っているのでいちおうは飲む)
②缶詰のさくらんぼ
「缶詰のさくらんぼ味」といっても過言ではないあの独特の味が癖になる。
(わざわざ買うほどでもないので逆に食べる機会はレアである)
③イチゴ味のあめ
飴は全体的に味の再現度が低いがいちごはピカイチ。
④ねぎとろorサーモンのおにぎり
そもそもねぎとろやサーモンという生ものがおにぎりとして賞味期限〇時間の時点でおかしいのである。
そしてだいたいそういうおにぎりはわさび醤油の味しかしない。(のにおにぎりのラインナップとして存在しつづけているのはほかの人はわさび醤油の味しかしないことに気づいていないのだろうか)
⑤コロロ(グミ)
これはおいしいという人もたくさんいると思うが、どうもあの食感と「皮」の味が人工的過ぎるのでおいしいとは言えないんじゃないかなあと思う。(あくまで個人の感想です)
でもたまに食べる。
わかってくれる人いないかなあ。
秋を感じた。
ついさっきブログを投稿したばかりなのに次が早すぎる。
全然更新しないか、すぐに更新するかのどちらかしかできないのだろうか、と自分自身でもツッコミを入れたくなってしまう。
でも、そもそもブログをまた書こうと思ったのは、タイトルにあるように「秋を感じた」からそれを文字にして残しておきたかったからなわけで、こちらが本題であるから許してほしい。
ねこじゃらしが、揺れながらこちらに迫ってくるようだった。
今日この光景を見た時に、たまらなく「秋だ」と感じて、秋特有のもの悲しさと、でもそこに美しさを感じて嬉しくなってしまうなんとも言えない感情が押し寄せてきた。
私は今、大学の寮に住んでいるのだが、私の部屋は中庭に面しており、ベランダから中庭がよく見える。
中庭、といっても手入れはまったく行き届いていなくて、定期的に草刈りはされているが、四季折々の雑草で彩られているようなそんな場所である。
今はちょうど、ねこじゃらしがたくさん生えている。
夕方、といっても少し日が傾いたくらいでまだ周りは明るいときに、秋の風に吹かれてねこじゃらしが揺れているのにははっとさせられるものがある。
それなりに背が高く、柔らかな茎を持っているからこそ、風に吹かれればまるで辺り一面が波打つように見えるのはとても趣がある。
秋は夕焼け空や、もみじや、ほかにも美しいものが多いからこそ、そのように色彩が豊かなわけでも、格別美しいわけではないものに秋を見出して、心打たれるようなこともあるのだろう。
別にSNS映えするような、華やかな光景ではなかったかもしれない。
それでも、ずっと見ていたいと思えるような光景であったことにはまちがいないと思う。